洛菜庵

古都の郊外、四季折々の散歩道です

角宮神社(乙訓大明神)は継体天皇が建てた?

今年は継体天皇の弟国宮(おとくにのみや)遷都1500年の年とされています。
1500年前の西日本は古墳が現役だった時代です。

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井ノ内車塚古墳(長岡京市井ノ内向井芝)
継体天皇時代(約1500年前)の前方後円墳(部分発掘)~

このころは各地に大王(おおきみ)と呼ばれる豪族がいて、やがて統一された国家ができつつありました。いや日本書紀によると、すでに統一できていたらしい。
立証されていないけれど継体大王は26代天皇とされています。




話が変わりますが、わたしが住む近くに角宮神社という小さな神社があります。
延喜式神名帳には、乙訓坐火雷神社山城国乙訓郡鎮座と掲載されています。
これが現在の角宮神社の姿です。

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祭神は火雷神(ほのいかづちのかみ)。つまり、京都上賀茂神社の祭神・賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)の父親です。

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創建時の乙訓社は、現在の角宮神社から西へ600メートル余りの場所(長岡京市井ノ内宮山)に建てられていて、承久の変(1221)で滅失したらしい。
その後250年余り空白。1484年に旧・乙訓社の御旅所があった今の地に再興されました。

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初代の乙訓社があったといわ
れる長岡京市井ノ内宮山付近


で…。

角宮社伝に「継体天皇六年(513年)五月勅して乙訓社を建営し給ひ火雷神を鎮め給ふ」とあります。


日本書紀によると…
継体は57歳のとき(507年)樟葉宮(現・枚方市)で即位し、
即位後五年目(512年)に山背筒城(現・京田辺市)へ移り、
継体十二年(518年)春三月に弟国(=乙訓:現・長岡京市北部辺り)へ移ったとされています。


その後、継体二十年(526年)秋九月にやっと、当時の政治中枢地である大和国・磐余玉穂宮(いわれたまほのみや、現・桜井市)へ入ったと書紀に書かれています。
でも、継体天皇に係る記述は、古事記日本書紀では崩御の年が7年も差異があったりして、どれが正しいかは立証されていません。

この宮山辺りを発掘すれば、継体天皇が数年間滞在するにあたって先住民に贈ったとされる社跡が判るかもしれませんね。